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 「カウラの悲劇」から60年
【2004年7月20日】

シドニーの西約300キロに位置する内陸の小さな町カウラは、日本とオーストラリアの友好関係を語るのに、欠かせない場所。毎年10月には、日本文化を紹介する桜祭りも開催される。


画像提供: Tourism New South Wales

第2次世界大戦当時、ここに捕虜収容所が設置され、「敵国」の日本人、イタリア人、ドイツ人らが収容されていた。「カウラの悲劇」といわれる日本兵の集団脱走事件が起こったのは、1944年8月5日のこと。事件からちょうど60周年を迎える今年は、「平和の鐘」から捕虜収容所跡までのたいまつ行列、詩と歌とダンスによる脱走当時の状況再現、祈念キャンプファイアー、日本語歴史解説板除幕式といったさまざまな記念行事が予定されている。また、尺八奏者ライリー・リー氏のコンサート&俳句朗読会や、「写楽」展覧会オープニング及びレセプション、茶道実演など、文化イベントも盛りだくさんだ。

●「日本兵の集団脱走事件」って?

1944年8月5日未明、カウラ捕虜収容所に収容されていた日本兵約1,100人が集団脱走を試み、自殺者も含め、231人が死亡。負傷者は107人。オーストラリア側の犠牲者は4人。

※余談ながら、『裸足の1500マイル』のフィリップ・ノイス監督は、この実話を元に、若き日の石田純一を起用したTVムービー『The Cowra Breakout(カウラ大脱走)』を1986年に制作している。

【関連】カウラ集団脱走と捕虜収容所について(PDFファイル)

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を守るための、無謀な脱走計画。生き延びる公算なんてなかったのに――。いや、きっとそれは「死ぬための脱走計画」だったのだろう。捕虜になったことを恥じ、偽名を使って収容所で暮らしていた彼らが、食事用のフォークやナイフを手に、銃弾の中をどんな気持ちで駆け抜けたのかと思うと胸を衝かれる。「捕虜になるのが恥」という考えを持たないオーストラリア兵には、日本人捕虜がどうして自殺同然の集団脱走を企てたのか理解できなかっただろう。


画像提供: Tourism New South Wales

終戦後、カウラ墓地内には日本人戦没者墓地が設置され、カウラ市民によって手厚く守られている。平和と友好のシンボルとして、日本庭園も建設された。カウラと日本の関わりを知らずに訪れた人は、たった1万3千人余りの人口の町に、こんなにも立派なジャパニーズ・ガーデンがあることに驚く。日本人戦没者墓地から日本庭園に続く通りは、サクラ・アベニューと名づけられた桜の並木道。明るい陽光が降りそそぐ収容所跡地は、あまりにも静かで穏やかで、たった60年前の悲劇が遥か昔のことに思える。

不幸な歴史にも関わらず、日豪関係は順調な発展を遂げ、今では「かつて日本軍がオーストラリア本土を攻撃した」という事実を知らずに、この国を訪れる日本人も少なくない。「オーストラリア大好き!」という人は、真の日豪友好を象徴する町となったカウラにもぜひ一度足を運び、平和と和解の大切さをかみしめてほしい。

◆60th Anniversary P.O.W Breakout Commemorations 2004(2004年カウラ脱走60周年記念)
  日程: 2004年7月31日〜8月8日(公式式典は、2004年8月4日〜5日)
      ※詳細プログラムはこちら(英語・PDFファイル)
  問い合わせ先: カウラ・ビジター・インフォメーション・センター</a>(英語)または、カウラ郡役所(英語)

(「地球の歩き方」ホームページ・シドニー特派員レポート掲載)
 
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